
朝日に照らされて紅く染まる富士山。
その姿を目にしたとき、なぜ僕たちは心の奥で「尊い」と感じるのでしょうか。
それは、富士山が単なる自然の風景ではなく、古くから神の宿る山として日本人の精神と深く結びついてきたからなのかもしれません。
この記事では、日本神話や伝承の中で語られてきた富士山信仰のルーツ、そして赤富士がもつ再生と目覚めの意味をひもといていきます。
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日本神話の中で、富士山の神として語られるのが木花咲耶姫(このはなさくやひめ)です。
彼女は、花のように美しく命を咲かせる女神であり、命の誕生と再生を司る存在とされています。
出産の際、火を放った産屋の中で無事に子を生んだという伝承は、「炎の中から新しい命が生まれる」=「再生と浄化」の象徴として語り継がれてきました。
この神話は、赤富士の燃えるような赤とも深く重なります。
富士山が朝日に染まる姿は、まるで木花咲耶姫が再び命を咲かせる瞬間のよう。
赤富士は、古来より「命の再生」を象徴する姿として、人々の心に刻まれてきたのです。
ちなみに僕が描く赤富士では、「観る人が本来の自分を再生する」「観る人の中にある光を取り戻す」きっかけになる赤富士の絵として描いています。

富士山信仰には、もうひとつの大きな特徴があります。
それは、「火」と「水」、つまり相反するエネルギーの調和です。
富士山は火山でありながら、雪を頂く「水の山」。
その姿は、自然界のバランスを体現しており、日本人はそこに「陰と陽」「破壊と創造」「静と動」の調和を見出してきました。
赤富士もまた、その両極の象徴です。
火のような赤は情熱・生命力・変化を表し、富士の静かなシルエットは安定・忍耐・安心を表します。
だからこそ、赤富士を眺めるとき、僕たちは自分の中のエネルギーが整っていくような感覚を覚えるのだと考えています。
それは古代から続く「自然と調和して生きる」という日本人の祈りそのものといえるでしょう。
かつて富士山は、神が降り立つ「御神体」として崇められていました。
そのため、山頂を天界とし、中腹には「浅間大社」などの神社が多く建てられています。
人々は富士山を登ることで、地上(現実)から天上(真理)へと心を高める修行の道を歩んできました。
富士登山は単なる登山ではなく、「自分を整え、内なる神性とつながる儀式」だったのです。
そして赤富士は、その祈りの象徴。
夜明けとともに赤く燃える富士山の姿は、「新しい自分に生まれ変わる瞬間」を象徴していました。
このように富士山は霊山であることから、私服で土足で富士山を登るというのは、実はとても失礼なことだと僕は先生に教わったことがあります。
現代の僕たちは、日々の忙しさの中で、本来の自分のペースや心の静けさを見失いがちです。
赤富士の絵を眺めるとき、そこに見えるのは単なる自然の美しさではなく、「心が目覚める瞬間」そのもの。
赤富士が持つ火のエネルギーは、外の世界を変えるためではなく、あなたの中に眠る光を呼び覚ますためにあるのかもしれません。
だからこそ、多くの人が赤富士を飾ることで、「空気が変わった」「気持ちが前向きになった」と感じると思っています。
それは、古来の信仰が形を変えて、今もなお僕たちの心に息づいている証拠といえるでしょう。
日本神話や伝承に描かれる富士山は、単なる山の神ではなく、「人の心を映す鏡」のような存在でした。
赤富士はその中でも、「火」と「再生」「命の目覚め」を象徴する特別な姿。
それは、心を整え、再び人生を動かしていくための「祈りの形」なのかもしれません。
現代に生きる僕たちにとっても、赤富士は、「自分の中の光をもう一度見つめる絵」としての意味を持っています。
その赤い光を通して、あなた自身の中にある静かな炎が、再び穏やかに燃えはじめますように。